紅葉を求めて関口芭蕉庵へ(文京区)
無料利用できる施設で植物の彩りから四季を感じることができるステキな場所だ。
有名な庭園などと違って広くはないが、ふらっと訪れることができて自分のペースで散策できる点が気に入っている。
芭蕉庵のようす
関口芭蕉庵は、日本の俳人
庵へは民家で見かける裏口のようなところから入っていく(正門もあるが閉まっていた)。
木造建築で温もりが感じられる芭蕉庵
庵へ入ってすぐ視界に映る建物は芭蕉庵と呼ばれている。
木造なので風情があり、屋内の机なども木製で落ち着く。
建物の出入りは自由にできるようだが、毎回庭の散策目的で訪れるため利用したことはない。
関口芭蕉庵を散策
関口芭蕉庵の庭はそれほど広くないため短時間で全体を散策できる。
そのため景勝地を求める人には少し物足りないかもしれない。
松尾芭蕉の句
庭には俳人だった松尾芭蕉の句がところどころにある。
植物と一緒に芭蕉の句が詠まれているが、句だけではなく植物の概要も書かれている。
植物について学びながら芭蕉の句を詠むという工夫があり、植物園のようなサービスには好感がもてる。
小さな池と四季
私自身は池とその周辺の植物から四季を観るのが好きで関口芭蕉庵を訪れる。
晩秋だと木々が紅葉していて季節感があり、カサに当たる雨音も心地よく聞こえた。
関口芭蕉庵は平日だと人が少ないため、ゆっくり散策できる場合が多いから狙い目だ。
■関口芭蕉庵の基本情報(2017年)
・開園時間…10:00~16:30
・休園日…月曜・火曜 ほか
・入園料…無料
関口芭蕉庵の案内図と紹介文
入口には説明板と案内図があった。
説明板には関口芭蕉庵について次のように紹介していた。
関口芭蕉庵/文京区関口2-11-3
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「
享保11年(1726)、芭蕉の33回忌に当たり、芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。
芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が、芭蕉の直筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ桜」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。
芭蕉庵の建物は、昭和13年(1938)3月、近火で類焼したが、同年8月再建された。しかし、昭和20年(1945)5月の戦災で焼失した。
敷地内には、芭蕉堂・さみだれ塚・朱音菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり、往時をしのぶことができる。
郷土愛をはぐくむ文化財 文京区教育委員会/平成10年3月
関口芭蕉庵周辺のMAP
関口芭蕉庵
(所在地 東京都文京区関口2-11-3)
■関口芭蕉庵までの距離(徒歩の場合)
-都電-
荒川線「早稲田駅」…約 0.495km(06分)
-東京メトロ-
東西線「早稲田駅」…約 0.906km(11分)
有楽町線「江戸川橋駅」…約 1.11km(13分)
【こぼれ話】芭蕉庵の横にある胸突坂
芭蕉庵のとなりには急勾配の坂道がある。
こういう坂道は利用者のために改修されることが多いので、いまどき珍しいと思っていたら文京区の名所のひとつだった。
坂道について説明板があり、次のように書かれていた。
胸突板/文京区関口2-11と目白台1-1
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
郷土愛をはぐくむ文化財 文京区教育委員会/平成10年3月
◇
「関口芭蕉庵」周辺には文京区の名所が多い。
すぐとなりに「胸突板」「水神社」があり、坂をのぼると「永青文庫」もあるため、少し時間をかけて散策したいところだ。
【こぼれ話】水神社の黄葉したイチョウ
関口芭蕉庵の間に胸突板を挟んで水神社がある。
晩秋だったので境内のイチョウが黄葉していてとてもキレイだった。
鳥居を見ると「水神神社」とあるが、文京区の説明板には「水神社」と記載されていて、どちらが正式なのかは不明だがそれは気にしないようにしよう。
水神社についても説明板があり、次のように書かれていた。
水神社/目白台一丁目一-九
祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
創建の年代は定かでない。
『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
郷土愛をはぐくむ文化財 文京区教育委員会/昭和五十八年三月
ひときわ目立って目印になった水神社の黄葉
黄葉の時期だったのでイチョウが目印となり、神社や芭蕉庵は探しやすかった。
観光情報についての参考サイト
■文京区
公式サイト