「隅田川物」とゆかりがあった木母寺(墨田区)
歌舞伎や浄瑠璃などに関係のある方や好きな人は『隅田川物』だけでピンときたかもしれない。
境内にあった案内板に寺の紹介があり、そこで『隅田川物』のことを知って歴史や芸能文化に興味がわく経験をした。
不思議な姿をしている宇賀神に会うため木母寺へ
宇賀神は頭部は人だけど体は蛇の姿をしている不思議な神様だ。
ネットで調べると、福徳をもたらすといわれてる神様のようで、弁財天と同一視されることが多いらしい。
女性の姿をした弁天様を見ることはあるけど宇賀神は少ないので会いたくて木母寺を訪れた。
宇賀神は建物の裏手にひっそりとたたずんでいて、はじめは気づかなかった。境内を回ってみてやっとで探せてほっとした。
宇賀神については案内板などがなかったので詳細がわからず、ちょっとがっかりした。でも凛々しいお顔に、ていねいに彫られた姿を間近で見れて感動した。
目的の宇賀神に会えたので満足し、境内をゆっくり回って最後に木母寺の由緒が書かれている案内板を読んだ。
読み終えて初めて木母寺に残っている梅若丸の悲話を知り、『隅田川物』を知り、歌舞伎や浄瑠璃などの芸能と関係のあるお寺とわかった。
今回みたいに身近に感じることができると、興味がわいてもっと知りたいと思うようになる。機会があれば『隅田川物』自体にふれてみたいと歴史や芸能に興味がわいたお寺だった。
木母寺由緒沿革
宗旨 天台宗/山号 梅柳山/本尊 慈恵大師(別名 元三大師)/総本山 比叡山延暦寺
当寺は平安時代中期の貞元元年(九七六)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てた念仏堂が起源で、梅若丸と名づけて開かれました。
文治五年(一一八九)鎌倉時代、源頼朝が奥州遠征の途中に参拝し、長禄三年(一四五九)室町時代、太田道灌が訪れ、梅若塚を改修したと伝えられています。
天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、徳川家康が参拝し、梅若丸と塚に植えられた柳にちなみ「梅柳山」の山号が与えられています。
慶長十二年(一六〇七)江戸時代に前関白・近衛信尹が訪れ、柳の枝を筆代わりに「梅」の異体字「栂」を「木」と「母」とに分け書して以来、木母寺と改名されました。
寛永年間、三代将軍・徳川家光の時代には境内に「隅田川御殿」が建てられ代々の将軍が鷹狩りや隅田川遊覧の休息所として利用され、さらに将軍家に献上するための御前栽畑が作られました。
明治元年(一八六八)神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け梅若神社となりましたが、明治二十二年(一八八九)に寺院への復帰を果たします。
昭和二十年(一九四五)に米軍の空襲を受けて本堂を焼失し、戦後に復興をとげますが、昭和五十一年(一九七六)都市再開発法に基づく東京防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転します。
※木母寺に設置されていた案内板より
梅若塚
境内にある梅若塚は能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。
当寺に現存する寺宝絵巻物「梅若権現御縁起」(上中下の三巻から成り、高崎城主・安藤対馬守重治が延宝七年(一六七九)に寄進。墨田区登録文化財)には梅若塚の由来が描かれています。
※木母寺に設置されていた案内板より
梅若権現御縁起
平安時代の中頃、京都の北白川に吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘、花御前という夫婦がおりました。
二人には子供がなく日吉大社へお祈りに行きました。すると、神託によって梅若丸という男の子を授かることができたのです。
梅若丸が五歳の時、父親の惟房が亡くなり梅若丸は七歳で比叡山の月林寺というお寺へ預けられました。
梅若丸は●第一の稚児と賞賛を受けるほど賢い子供でした。その賢さが災いしたのか比叡山では東門院にいる稚児、松若丸と、どちらが賢いかと稚児くらべにあい東門院の法師達に襲われます。彼らに襲われた梅若丸は山中をさまよったのち、大津の浜へと逃れました。
そこで信夫藤太という人買いに連れ去られ東国へと向かいます。旅の途中、病にかかってしまった梅若丸は貞元元年の三月十五日、隅田川の湖畔で
尋ね来て 問はば応へよ 都鳥
隅田川原の 露と消へぬと
と句を残し十二歳という若さで命を落としてしまいました。
そこに通りかかった天台宗の僧である忠円阿闍梨は里人と塚を築き柳を植え弔いました。
梅若丸が亡くなったあくる年、母は失踪した息子を探し狂女となって東国へと向かいます。
そしてちょうど一周忌の日に隅田川に至り渡し守より梅若丸の死を聞きました。
大念仏を唱えると梅若丸の霊が現れ再会を果たしますが梅若丸の姿はすぐに消えてしまいました。
母は墓の傍らにお堂を建立し妙亀尼となって、そこで暮らしますが悲しみのあまり鏡ヶ池に身をなげてしまいます。
すると不思議なことに霊亀が遺体を乗せて浮かびあがりました。忠円阿闍梨はそこに母親の墓所をたて母を妙亀大明神として祀り梅若丸は山王権現として生まれ変わったとのことです。
※木母寺に設置されていた案内板より
隅田川物
謡曲「隅田川」は世阿弥の息子、観世十郎元雅によって作曲されました。梅若丸と狂女となった母親の悲話として伝わる梅若丸物語は室町時代より「隅田川物」として能楽をはじめ浄瑠璃、歌舞伎、舞踊、謡曲などの演目として盛んに上演されてきました。
この「隅田川物」を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣り」を行ったことから、芸道上達の祈願寺として大衆の信仰を集めています。
※木母寺に設置されていた案内板より
木母寺の変遷
江戸時代、当寺では梅若忌(梅若丸を供養する大念仏の行事)や開帳がおこなわれ、多くの参拝者を集めていました。幕府から寺領二十五石を与えられ歴代将軍・将軍世子・公家・大名・文人など当代の貴顕とともに、一般庶民も多く訪れる隅田川遊覧の代表的な名所でした。時代が江戸時代から明治時代にかわると、廃仏毀釈により明治元年(1868)に廃寺し、寺の堂舎は取り除かれ跡地には梅若神社が創建されました。徳川家の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、多くの地域住民と政財界の有力者および文化人たちの支援を受け、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たします。神社を再び仏寺にすることは、当時としては非常に困難な事業であり、当寺では、これを明治中興と称しています。その後も、昭和二十年(1945)四月十三日に米軍の空襲を受けて本堂・庫裏を焼失。さらに同月十五日に爆撃を受け、梅若堂や境内の石碑が大きな被害を被りました。昭和二十五年(1950)に仮本堂を建立し、二十七年(1952)に梅若忌が再開され今日に至ります。
※木母寺に設置されていた案内板より
木母寺について
梅柳山 墨田院 木母寺
(所在地 東京都墨田区堤通2-16-1)
■木母寺までの距離(徒歩の場合)
・鐘ヶ淵駅…約 0.70km(08分)
■区内循環バス「北西部ルート(向島・鐘ヶ淵ルート)」
バス停「隅田川神社・木母寺入口」下車
約 0.451km(05分)
観光情報についての参考サイト
■Sumida Tourisum Association|すみだ観光サイト
https://visit-sumida.jp/
一般社団法人 墨田区観光協会
■墨田区 公式サイト
https://www.city.sumida.lg.jp/index.html
■GO TOKYO
https://www.gotokyo.org/jp/index.html
東京の観光公式サイト